2.コンサル会社に入った経緯

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大学卒業後、ぼくは新卒で大手の国内系コンサルティングファームに入社した。

就活中はコンサル会社に入りたいとはたいして思っていなかったのだが、そこからしか内定がもらえなかったこともあり、そうなった。

今日の記事では、紆余曲折の末にコンサル会社に入った経緯を記す。

就活のスタンス

就活生時代の序盤、ぼくは外資系の投資銀行に行きたいと考えていたし、中盤では総合商社を志望していた。なぜ投資銀行や総合商社に入りたかったのかと言えば、偏に給料がいいからに他ならない。

大学生当時、ぼくはやりたいこともなければ、そもそも働くということに対する現実感が持てていなかった。それまでずっと学生という身分で生きてきたのに、それが終わるから働かなければならないというのは、頭では理解できてもイマイチ実感が持てなかった。

やりたいことがなく、労働に対する意欲もない。そんな低い意識の持ち主のぼくであったが、目に見える数字である給料がいいところに入れれば間違いないだろう、少なくとも貰えるものも貰えずやりがいも感じられない所に行くよりかはマシだろうという浅はかな考えだけは持っていた。

結果として、志望企業はどこも意識と能力が高くなければ入れないような難関ばかりになっていた。

当時の就活スケジュールは4年生の4月に解禁だったが、経団連のルールに縛られない外資系企業はそれよりも早く選考を開始しており、投資銀行の選考は3年生の秋口から始まっていた。

過去にも述べたが、ぼくは大学生活の途中で精神を病み、卒業が人よりも2年遅れている。そんなハンディキャップを背負った状況で、自分よりも高学歴の俊英たちと投資銀行の内定を奪い合うのは土台無理な話であり、当時のぼくもそんなことくらい頭ではわかっていた。

しかし、それでももしかしたらという気持ちはあり、受けるだけタダだとエントリーシートを送り付け、運よくインターンまで進んだものもあったが、結局は全滅という結果に終わった。

投資銀行の選考が不芳に終わった時点で、ぼくは自分の身の程を弁えて、就活に真剣になるべきだったのだろう。少なくとも、将来やりたいことをよく考えて志望業界を定め、準大手から中堅の企業までを対象にエントリーシートを送り付けるくらいの危機感は持って然るべきだったように思う。

しかれどもぼくは「やりたいことなんてないし、そもそも働きたくない。どうしても働くのなら給料が高いところじゃなきゃ嫌だ」という子供じみた自分の気持ちに正直に従ってしまい、結果として総合商社(それも5社ではなく、締め切りを忘れたり間に合わなかったりで3社)と、片手で足りる程の有名企業にエントリーするのみという状況で大学4年生の春を迎えることとなっていた。

ガクチカ、あるいは妄想の産物

時に、就活ではエントリーシートにしろ面接にしろ、ガクチカ(学生時代に力を入れた事)を軸に採用担当者に自分を売り込むことになる。このガクチカ、「盛るのはいいが捏造はダメ」という意見をよく耳にするが、ぼくはこのガクチカのひとつを完全に捏造した。

学生時代に時間と労力を費やしたことで人様に誇れることが何一つなかった故の、苦肉の策である。

ちなみにだが、投資銀行を受ける更にその前の時分、一度だけ練習と思い、それこそ名前も聞いたこともないような設立間もないITベンチャーの面接を受けたことがある。そこで始めてガクチカを訊かれ、何の用意もしていなかったぼくは正直に「たくさん小説を読んだこと」と答えたことがあった。

これには面接官も困惑気味で、それでもどうにか話を広げ「比較的むかしの作品を読んでいるようですが、何か理由はありますか?」と質問を投げてくれた。

それに対して「時の洗礼を受けたものしか、ぼくは信用しないんですよ」と村上春樹さんの小説にあったような台詞を吐いたところ、「うちの会社、時の洗礼受けてないけど大丈夫ですか?」と益々困惑されてしまったことがあった。

どうあれ、この時の経験で就活にはガクチカが必要だと学んだぼくは、その後小さなビジネスコンテストに出場して優勝し、就活で使えそうなエピソードを多少は増やすことに成功した。

しかしながら、さして有名でもないビジコンで優勝しましたという話を、自分の6年間に及ぶ学生生活の目玉エピソードとして据えるにはやや弱いのではないかとの疑義はあった。

ぼく自身、そのビジコンに出たのは偶々目に留まったからだし、優勝出来たのも偶然一緒になったチームメイトが優秀だったことによるところが大きい。(ビジコン終了の数か月後、彼にはコンサル業界最難関の某戦略系ファームからオファーが出ていた)

どうあれ、この程度のガクチカで難関企業から内定を得ることは不可能だろうとの結論に至ったぼくは、であればと頭を絞り、そうして生まれたのが「大学を休学して、リーマンショックで経営難に陥った父が経営する会社の立て直しを行った」という噓八百のエピソードである。

父が会社を経営していることも、リーマンショックで経営が厳しくなったのも本当の事だが、休学中にぼくがしたことと言えば、せいぜいが帳簿付けや在庫の棚卸といった事務作業の手伝いである。

その事務作業中、「こんな事やったらきっと経営が上向くんだろうな」などと妄想していた内容、つまり(当時は今ほど一般的でなかった)WebやSNSを活用した集客施策、アフターマーケティングによる顧客深耕を実際に立案・実施したことにしたのだ。

最初は「学生の分際で」と社内の古株たちから反発されるも、泥臭い仕事にも前向きに取り組む姿勢と粘り強いコミュニケーションで徐々に認めてもらえるようになり、最終的には周囲を余すことなく巻き込んで改革に取り組むことができた。そんなエピソードも、妄想だから盛り込み放題である。

内容にインパクトがあるし、加えて当時のぼくの最大のコンプレックスであった、2年間の休学を正当化してくれるという意味で一石二鳥のガクチカと言えた。

この妄想の産物が採用担当者の興味を引いてくれたからなのか、ぼくのエントリーシート通過率はかなり高かった。(書類落ちしたのは某投資銀行1社のみで、他は全通だった)

面接

結論から言えば、ぼくはエントリーシートを送ったほぼ全ての企業の面接に呼ばれたが、先述の通り投資銀行からも、投資銀行の次に志望していた総合商社からはオファーを貰えなかった。

これは、ガクチカを語るだけならば質疑応答を含めて完全にシミュレーションしているため問題なかったのだが、こと志望動機ややりたいことという話になった途端、想像力が働かず説得力のある返しが出来なかったからだと思われる。

無論、今となっては面接官がぼくのどこを見ていたかわからない。

ただ、何人か商社のOB訪問をした後でもぼくは仕事に対するイメージを具体的に固めることが出来ず、「資源投資をしているといったところで、まさかツルハシ持って石油掘りに行くわけでもあるまいし、やってることはパソコン仕事だろう。だとしたら他の会社と何が違うんだ」と心の底で思っていたことだけは覚えている。

お祈りメールを受け取るまでもなく、次の面接に呼ばれていないことから自分が総合商社の面接プロセスから脱落したことは早い段階で察した。他の会社の選考も進んでいない。もしこのままどこからも内定を貰えないとなれば、ぼくは大学卒業と同時に無職だ。

そのことを田舎の母に電話で伝えると、「どこでもいいから絶対に就職しろ」と、ある意味当然の反応が返ってきた。

そうは言われても、その時点でほとんどの大手企業はエントリーを締め切っている。エントリーを受け付けているとしたら、大手以外の名前も知らないような会社ということになるが、そんな格落ち企業に対しては就職以前に、態々事業内容を調べてエントリーし、志望動機どころか勤労意欲すらないのに「働かせてください!」と偽りの熱意をアピールする気になれなかった。

そこを曲げても詮方無しとばかりに新しく会社を漁るような真似はせず、そうは言い条、いよいよとなればなりふり構わず動かなければならないだろうことは頭の片隅に置きつつも、ぼくは取り敢えず残っている手札に賭けることにした。

そこで数少ない頼みの綱のひとつとなっていたのが、いつの間にかエントリーだけは済ませていた、国内系の某コンサル会社(X社)だった。

捨てる神あれば拾う神あり

結果的に、ぼくはこの会社から内定を得てそのまま入社することになった。

X社に関してはなぜ、どのような経緯でエントリーしたかは正直よく覚えていないのだが、恐らく初任給が高いという理由で何とはなしにポチっていたのだろう。

ただし、春前の寒い時期に興味本位で説明会に参加し、「何やってる会社か商社以上に分かんねぇな」と思ったことだけは今でもぼんやりと覚えている。

この会社は四月の半ばに一次選考のグループディスカッションがあり、下旬の二次・三次面接を経て、内々定を貰ったのは五月の頭だった。

X社一次選考

ちなみにだが、一次選考のグループディスカッションは4人1班で「日本から麻薬犯罪をなくすには」というテーマを論じるもので、各自がアイディアを発表し、それに対して発表者以外のメンバーが質問するという形式だった。所謂、グループでのケース面接である。

このようなケース問題では、個別の施策の中身(罰則を強化する、麻薬犬を増やす等)は然程重要ではない。

それよりも、全体の枠組みをどう設計するかが重要なポイントであり、ぼくはサプライチェーン、つまり麻薬が海外、もしくは国内の生産者→卸業者→個人相手の売人→最終消費者に渡るまでのプロセスを整理し、それぞれに対して施策を打つという案を発表をして無事に選考を通過した。

この「枠組みが大事」というケース面接の鉄則を体得出来ていなかったせいで、ぼくはそれ以前(特に投資銀行)の面接で何度も辛酸を舐めていたのだが、この頃になってようやっと、知的労働者らしい考え方が身に付き始めていた。

X社二次選考

二次選考は30歳代の女性のマネージャー(課長相当)との1対1の面接で、ガクチカと志望動機を訊かれた。

前者に関してはいつもの通りの話(例の妄想)をした。面接官からは「学生の立場で年上の社員と混じって働く上で、一番苦労したことは何ですか」等の、これまた他の面接で訊かれたような質問を受けた。

それに対しては、「学生ということもあり、最初はあまり真面目に取り合ってくれず、仲間として見てもらえるようになるまでが大変だった。しかし、立場が違うからこそ、各社員の悩みや問題意識を丹念に吸い上げ、連携の上手くいっていない社員の間に入り込むことで潤滑油としての役割を果たすことが出来た」のような、準備してあった答えを返した。

就活中に何度も類似のやり取りをしたため回答は淀みなく、正直ここまで来ると自分でもこの話が妄想なのか現実なのか区別がつかない程であった。

後者の志望動機に関しては「自分の中でやりたいことが固まっていないため、コンサルタントとしていろいろな会社のビジネスに触れることでどこに行っても通用するポータブルスキルを磨きつつ、やりたいことを見つけていきたいと考えているため」と答えた。

自分のやりたい事がわからないから御社に入りたいというのは他業種では通用しないが、コンサル業界では言い方次第だ。

加えて、「なぜコンサル業界の中で御社かと言えば、国内系のコンサル会社として一定以上の規模で上級から下流までサービスを提供できる数少ない企業だから。外資にも類似のサービスを提供できる企業はあるが、短期的な“UP or OUT”のカルチャーではなく、ある程度長期的なスパンでキャリア形成をしたいから」と述べたところ、特にツッコミを受けることなく面接をパスすることができた。

2010年代前半のこの時点で、外資と言えど新卒で採用した社員を短期的な“UP or OUT”、つまり「昇進、さもなければクビ」で切り捨てるようなカルチャーは過去のものとなっていたが、業界の外にいる学生がそのことを知らなくともしょうがないと面接官が思ってくれるだろうという読みのもと、志望動機に組み込んだ。

二次面接が終わって家に帰るとすぐ、最終面接をしたいため翌日に来てほしい旨の連絡を貰った。最終面接はほぼ意思確認のようなもので、面接官の役員と30分ほど雑談した後、入れ替わりでやってきた人事からその場で内々定の書類を受け取った。

こうしてぼくの就活は終了した。

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